
ロンドンの下宿で十六歳の少女は、家主の女性が描く図面を肩越しに見た。1920年春、父の林長民に従ってヨーロッパへ渡ったところだった。紙の上で壁と屋根が線として立ち上がる光景は、彼女が読んでいた詩集とは違うやり方で世界をつかんでいた。その部屋がのちに山西の土の道と古びた寺へつながるとは、本人も知らなかった。
林徽因(リン・フイイン・1904~1955)は杭州に生まれ、福建閩侯の家の娘として育った。1924年にペンシルベニア大学に入り、美術科に籍を置いて建築の科目を受け、イェール大学で舞台美術を学んだ。梁思成とともに1928年に東北大学建築科に立ち、新月社と京派の文人たちの間で詩と散文を書いた。
中国建築学会所蔵の資料を梁思成とともに読み進めるうちに五台山仏光寺を探し当てた。1949年以降は清華大学教授として国章と人民英雄記念碑の設計に加わり、病により五十一歳で世を去った。
Q1. 1920年、ロンドンで下宿の女主人に建築を勧められました。詩を書いていた少女がなぜ建築へ向かったのですか?
詩は私の中から出てくるもので、建築は私の外に立っているものでした。ロンドンのセント・メリー女学校に通っていた頃に西洋文学をたくさん読みましたが、読むほどに人が実際に体を横たえる一部屋が気になりました。下宿の女主人は自分の仕事を自慢しませんでした。ただ紙の上に壁を立てては消していました。
その手つきに引かれました。文章は書き直せば済みますが、誤って立てた柱は人を傷つけます。責任が重いという事実がむしろ良かったのです。1921年に北京へ戻り培華女学校に復学したあとも、その思いは薄れませんでした。
Q2. 1928年、東北大学で梁思成とともに古い文献を調べて唐代建築を追跡され、五台山仏光寺にたどり着かれました。調査とは実際にどのような仕事だったのでしょうか?
ほこりの匂いから始まります。古い木造の中に入ると、乾いた木と香、コウモリの糞が混じった匂いが鼻を突きます。斗栱を見上げて目で数え、はしごを掛けて登って手で触れてみて、ものさしで測って書き留めます。木は手のひらに冷たく、木目が太くつかめます。
文献に記された名前だけでは建物がどこに残っているのか分かりません。数百の唐代の建物と地名を梁思成と分けて読みながら、どこに何が残っていそうか見当をつけ、その見当を持って土の道を歩きました。たいていは無駄足でした。
仏光寺では垂木の下の暗がりで古い痕跡を確かめました。その瞬間の心情を詩に書かなかったことが今も不思議です。図面を描くのに手が忙しかったせいでしょう。

Q3. ペンシルベニア大学では建築を学びながらも学籍は美術科にありました。そのことをどう耐えられましたか?
怒りました。長く怒りました。学ぶ内容と書類に記される名前が食い違うという事実を、私は最後まで納得できませんでした。
私の限界もありました。裕福な家に生まれ、父に従ってヨーロッパを回ったので私は学ぶことができました。同じ時代の大多数の女性にはそうした通路がありませんでした。私が受けた不当さを語るたびに、私が享受した分も一緒に語ってこそ公平です。
Q4. 書類に記される名前が食い違ったとおっしゃいました。その後、自分の仕事を残すやり方は変わりましたか?
図面と調査記録で残すほかありませんでした。だからもっと多く測り、もっと多く描きました。詩と散文も書き続けました。建築と文学は私にとって同じ態度でした。
体が壊れてからは測る仕事を人に譲らなければなりませんでした。1949年以降、清華大学で梁思成と古い建物の修理に取り組みましたが、私はよく横になっていました。手が届かないところを言葉で埋めるやり方をその時に学びました。
Q5. 国章と人民英雄記念碑の設計に参加され、同時に古い建物を守る仕事をされました。新しく建てる仕事と残す仕事はぶつかりませんでしたか?
ぶつかりました。都市は生きている人のものであり、生きている人は新しいものを求めます。古い塀と古い寺は道をふさぎ、金を食います。その事情を知らずに保存を語れば誰も聞きません。
それで私は古い技法を新しい仕事の中に引き入れようとしました。七宝の工芸がそうした場合です。古い技術は博物館に寝かせておけば死に、今日の手が握れば生きます。その過程でもとのものが少しずつすり減るという事実も知っています。
すり減るのを覚悟して使うのか、そのまま置いて忘れられるのか。私はどちらか一方をきれいな答えだとは言いません。争いながら進むほうが正直です。

Q6. 2026年の今日、都市ははるかに速く取り壊され、遺産は観光商品になりました。手で実測していた調査者として今の保存をご覧になっていかがですか?
機械のほうがはるかに精密に測るでしょう。うらやましいです。ところが測ることと知ることは違います。
はしごに登って軒下の暗がりに鼻を寄せてみた人だけが知ることがあります。その建物がどのように雨を流し、どこから腐り始めるのかは体が知っています。
遺産が金になることを悪いとは言いません。金にならなければ守ろうという人もいなくなります。要は、稼いだものが再びその建物の柱へ戻るかどうかです。切符を売って広場を広げ、肝心の垂木は腐るままにしておくことがよくあるでしょう。
一棟を復元すれば傷んだ部材を取り外します。その部材が抱えていた時間も一緒に出ていきます。新しい木に取り替える前に、抜き取った古い木を数日ほど見つめる人がその現場にいてほしいと思います。
Q7. 2024年、その大学があなたに建築学士を授けました。後から来る人に何を残したいですか?
百年かかる仕事があるということ。その間に私は死に、それでも紙は届きました。姪のマヤ・リンがワシントンに建てた黒い壁のように、あるものは遅れて届きます。
はしご一つあれば十分です。古い屋根の下に掛けて登り、冷たい木に手を触れてみてください。
仏光寺は山西省五台山に今も立っている。斗栱は今も暗く、夏の午後の木材の匂いは彼女がはしごを掛けていた頃のものと大きく変わらないだろう。図面は人が描くが、木は人を待ってはくれない。はしごを見上げる人はいつも足りなかった。
この文章は実際の対談ではありません。林徽因の生涯と著作、残された記録をもとにブレスジャーナルが再構成した仮想インタビューです。質問は記者が作り、答えは彼女が残した文章と足跡から引き出しました。
