
文学をやろうと大学に入った学生が、専攻を生物学に変える。1929年に卒業したとき、彼女はその大学で科学の学位を得た数少ない女子学生だった。30年余りが過ぎ、彼女が書いた一冊の本が米国の農薬政策を覆す。
レイチェル・ルイーズ・カーソン(Rachel Louise Carson, 1907~1964)はペンシルベニア州スプリングデールに生まれた海洋生物学者であり作家だ。ペンシルベニア女子大学で専攻を文学から生物学に変えて1929年に卒業し、ジョンズ・ホプキンス大学で海洋生物学の修士学位を取得した。1937年から1952年まで魚類野生生物局で海洋生物学者として働いた。
『われらをめぐる海』(1951)で全米図書賞を受けた後は執筆に専念し、1962年に『沈黙の春』を出した。56歳でがんのため世を去った。
Q1. 専攻を文学から生物学に変えられました。文章を書こうとしていた人が実験室に向かったわけですが、その選択を後悔したことはありませんか。
私は二つの道を乗り換えたとは思っていません。私が好きだった本は結局、海と自然を扱っていました。生物学は、私が書きたかった対象に正確な名前をつけてくれる道具でした。
学校を終えてメリーランド大学で学生を教えながら、新聞に自然史の記事を書きました。実験室の言葉と紙面の言葉を同時に使う訓練でした。詩的な文章と正確な事実が互いを削り合わないということを、そのとき学びました。
1937年から魚類野生生物局で海洋生物学者として働きました。15年が過ぎて私はその仕事を辞めました。文章を書く仕事にすべてを賭けるためでした。
Q2. 海に関する本を書いていた人が、何がきっかけで殺虫剤に目を向けたのですか。
海の三部作を終えてからでした。『潮風の下で』(1941)、『われらをめぐる海』(1951)、『海辺』(1955)を書くあいだ、私は水際から深い海まで生命が一つにつながっていることを確かめました。であれば、陸にまいたものが水に行かないはずはありません。
1950年代後半から私は合成殺虫剤が生んだ問題を調べました。4年間みずから調査した内容を第2章から第17章までに収めました。DDTをはじめとする薬剤が鳥や魚、野生動物、そして人に何をするのかを順に書きました。
本の第1章は寓話で始まります。調和していた村が徐々に生命を失い、春が来ても鳥の声が聞こえない場所になる話です。科学報告書で始めなかったのは、人が自分の住む場所を失う場面を思い描いてこそ次の章を読むからです。
Q3. 1962年の刊行直後、化学業界と農薬メーカーの攻撃が激しかったです。彼らの反論のうち一部は妥当でしたか。
私は殺虫剤をすべて廃止しようと書いたことはありません。論争はすぐに全面禁止か否かで分かれ、私を感情的な人間に仕立てるほうがずっと楽だったでしょう。非難と謀略は刊行直後に極まりました。
だからといって私の文章に弱いところがなかったという意味ではありません。一冊で複数の化学物質を扱いながら、物質ごとに危険の大きさが違うという点を十分に細分できませんでした。農業の現場で害虫の被害によって生計を失う人たちの事情も、もっと厚く書くべきでした。
私を攻撃した人たちを悪人として描きたくもありません。彼らは、汚染を進歩の代価として売る仕事が長いあいだ何の抵抗もなく通用してきた世界で働いていました。私が変えたかったのはその通用の仕方でした。
Q4. 本が攻撃を受けていた時期に病床にありました。その時期をどう耐えられたのですか。
体が崩れていくことと本が攻撃されることが同じ時期に来ました。1963年にケネディ大統領が環境問題を扱う諮問委員会を立ち上げ、私は大統領科学諮問機関で証言しました。そのとき私は、自分がその結果を長く見守ることはできないと知っていました。
回復と呼べるものは手紙でした。私の代理人マリー・ロデルは後に私の原稿と手紙を整理するのに2年近くを費やし、差出人一人一人に同意を求めました。同意したものだけが書庫に残りました。
1964年に世を去りましたが仕事は続きました。1965年、ロデルは私が本にまとめようとしていた文章の出版を計画しました。子どもに土と海と空の下で自分を置いてみさせよという、誰にでもできることに関する文章でした。
Q5. 海の三部作を書いていた時期に核廃棄物の海洋投棄を警告されました。海をそのように扱えると信じさせたものは何だったのでしょうか。
海が大きいという感覚です。広いから何を入れても薄まるという考えが長く通用しました。私は三部作を書きながら、海岸の水たまり一つと深海が同じ水の別の部分であることを見続けていました。希釈は消滅ではありません。
殺虫剤も同じでした。畑にまいたものは畑にとどまりません。土を通って水に行き、小さな生き物から大きな生き物へ移りながら体内に積もります。地球規模の問題はたいてい、このように境界がないところから来ます。
Q6. 2026年の今も多くの国が気候・化学物質の規制をめぐって同じ論争を繰り返しています。1970年の環境保護庁の設立を引き出した経験から、今日に手渡せるものはありますか。
私が最も長く手放さなかった問題は、権限が一つにまとまっているという点でした。それまで農務省一か所が農業振興と農薬規制を併せて担っていました。同じ省庁が促進と制御を同時に行えば、どちらか一方は必ず押しやられます。私はそれを利益相反と見ました。
1970年に環境保護庁が別に設けられ、まとまっていた二つの権限が切り離されました。それに先立って1967年に環境保護基金がつくられ、汚染されていない環境に対する市民の権利を法廷で争い、1972年までに米国でDDTの段階的な使用禁止を得ました。訴訟と立法と手紙が一緒に積み上がってできた結果です。
1980年代にその政策が巻き戻されるのも見ました。得た制度は守り続けなければ維持されません。巻き戻され得るということは、また立て直せるという意味です。
Q7. 100年後にこの紙面を読む人に一つだけ残すとすれば何ですか。
大げさな決心は要りません。今日、住んでいる場所の近くの水際に出て、何が生きているのかを十分だけ覗いてみてください。名前を知らなくてもかまいません。何があったのかを知ってこそ、何が消えたのかを知ることができます。
私が書いた本はすべてその十分から生まれました。春が静かになることを聞き取る耳はそうしてつくられます。
この記事は実際の対談ではありません。レイチェル・カーソンの生涯と著作、残された記録をもとにブレスジャーナルが再構成した仮想インタビューです。問いは記者が作り、答えは彼女が残した文章と足跡から引き出しました。
