
トウモロコシの穂一本に、粒の色が不ぞろいに並んでいる。ある粒は濃く、隣の粒は白っぽく、ある粒には小さな斑点が散らばっている。ほとんどの人にはただの斑紋である。一人の人にとっては、世代を飛び越えて位置を移す遺伝子の痕跡だった。
バーバラ・マクリントックは1902年にコネティカット州ハートフォードで生まれ、1992年に世を去った米国の細胞遺伝学者だ。1919年にコーネル大学農学部に入り、1923年に学士、1927年に博士の学位を受け、トウモロコシの染色体を目で見えるようにする染色技術を開発した。1931年にハリエット・クレイトンとともに、減数分裂中の染色体交差と形質の組換えがつながっていることを実験で証明した。1944年に米国科学アカデミー会員に選ばれ、1983年に遺伝的転移の発見でノーベル生理学・医学賞を単独で受けた。
Q1. 1921年にコーネルでC・B・ハッチソンの遺伝学の講義を聴かれ、翌年に彼が電話をかけて大学院課程に入るよう勧めました。あの通話が進路を分けたとお考えですか。
電話一本が私の未来を決めました。その後、私は遺伝学にとどまりました。ハッチソン先生は教室で私が見せた反応を覚えていたようです。
その通話の前に、もっと大きな敷居がありました。母は私が大学に行くと結婚できなくなると言って反対し、あの時代の親たちのよくある考えでした。父が登録の直前に許してくれなかったら、1919年の入学自体がなかったでしょう。
Q2. 1929年の三倍体トウモロコシ染色体の論文の後、コーネルの細胞遺伝学が大きく動きました。トウモロコシの十本の染色体の形を初めて示されたのもこのころですが、何を変えたことで見えなかったものが見えたのでしょうか。
見る場所を変えました。皆が根の先端の細胞をのぞいていたころに、私は小胞子の細胞を観察しました。カーミン染色を使うと十本の染色体がそれぞれ違う姿で現れ、そのときから一緒に遺伝する形質のまとまりを特定の染色体と組み合わせることができました。
1930年には減数分裂中に相同染色体が十字の形にからみ合う場面を記述しました。翌年にクレイトンとともに、顕微鏡で見たその交差が実際に新しい形質をつくることを示しました。それまで組換えは仮定であり、私たちはその仮定を目に見える出来事に変えました。
ミズーリでルイス・スタドラーがエックス線による突然変異誘発法を教えてくれたことも大きかったです。放射線を当てたトウモロコシで環状染色体を見て、染色体の端に安定性を守る何かがあるはずだという考えに至りました。テロメアを推し量ることになった出発点です。
Q3. 1940年代と1950年代に転移因子を発見されましたが懐疑論にぶつかり、1953年にはデータの発表をやめられました。当時の反応をどう受け止められましたか。

戸惑い、そしていくらかの敵意でした。ゲノムは世代を越えてそのまま伝えられる固定した命令の一覧だという考えが固まっていた時代です。ところが私は、染色体の上で位置を変える要素があり、それが遺伝子をつけたり消したりすると言いました。
私の発表の仕方にも問題があったでしょう。粒の色の模様を何世代にもわたって追った交配の結果と顕微鏡の観察を一度に並べたので、ついてくるのが難しかっただろうと思います。1953年を最後に、私はデータをそれ以上出さないことにしました。
あきらめたものはありません。研究は続け、発表をやめただけです。
Q4. 発表をやめた後、南アメリカのトウモロコシ品種の細胞遺伝学と民族植物学に移られました。その転換が回復だったのか、後退だったのかが気になります。
振り返ってみると息をつく場所でした。南アメリカの在来品種は人が長く育ててきた歴史と染色体の歴史をともに抱えており、私はその二つを一緒に読みました。論争から離れて手を動かす仕事があるということが助けになりました。
私は幼いころから一人でいられる子どもでした。三歳のころブルックリンの叔母の家で暮らし、学校でも群れをつくりませんでした。コーネルで女子学生クラブの招待を受けましたが、その団体がユダヤ人を排除する規約を置いていることを知って誓約を破りました。
一人でいられる能力だと私は呼びました。その能力が畑で長く持ちこたえさせてくれました。
Q5. 1960年代と1970年代に他の研究者が遺伝的変化とタンパク質発現のしくみを確かめる中で先生の研究が理解され始め、1983年のノーベル賞につながりました。30年を超えてかかったその時間を科学の失敗とお考えですか。
科学はそのように動きます。私がトウモロコシで見たものを他の人たちが別の材料で改めて出会うまでに時間が必要でした。同じ現象を何通りにも確かめてこそ、ようやく共通語になります。
それでも代価は人が払います。私は1953年から発表をやめ、その期間に出せなかった結果があります。見慣れない結果を持ってきた人に学界が何を求めるのかを体で学びました。

材料を変えても同じ目は通じます。トウモロコシで身につけた観察法は、他の生物に移っていってもそのまま使えました。
Q6. 今日の科学は遺伝子を読むにとどまらず編集します。論文の数と引用で研究を評価する慣行もあのころより強くなりました。今の研究者たちに、トウモロコシ畑で学んだことのうち何が今も役に立つとお考えでしょうか。
遺伝子を変えようとする人ほど、ゲノムがみずから動くという事実を忘れないでほしいと思います。転移因子はある細胞では移動し、ある細胞ではそのままでした。一つの粒の中でも結果が分かれ、その無作為性がまさに斑紋でした。
評価の問題は私の時代にも形が違っただけであったものです。私を守ってくれたのは、毎年畑に植えたトウモロコシでした。
結果が出るまで何世代も待たなければならない材料を扱う仕事が今も必要です。短い周期に合わせて切り取った研究だけが生き残れば、30年後に理解される発見は初めから始まりません。
Q7. 100年後の若い研究者が先生のトウモロコシの標本に向き合ったなら、何を見てほしいと思われますか。
粒一つを長く見てほしいと思います。私は変わった模様が見えると例外だと言って流さずに理由を問いただし、その習慣がすべてでした。
畑で穂を取って手に持ち、日の光に透かして見た午後があります。その中に答えが記されていて、私は読む方法を学ぶのに一生を使いました。
マクリントックが遺した方法は特別な装備を求めない。説明されないものを誤差として処理せずに記録しておく習慣は、実験室でも家庭菜園でも誰でも今日始められる。今手にしているデータの中で最も説明しにくい一行に印をつけておくことで十分だ。
この文章は実際の対談ではありません。バーバラ・マクリントックの生涯と著作、遺された記録をもとにブレスジャーナルが再構成した仮想インタビューです。質問は記者がつくり、答えは彼女が遺した文章と足跡から引き出しました。
