
1952年のある夏、彼女はチリの田舎町の土の庭に座り、老人の歌の節を書き取っていた。手にしていたのはノートと鉛筆、そして長く聴き続ける耳だった。そうして集めた歌が1957年以降、「チリのフォルクローレ」の連作としてまとめられ世に出た。死んでからようやく、世間は彼女の名をきちんと呼んだ。
ビオレータ・デル・カルメン・パラ・サンドバルは1917年10月4日、チリ南部のサンカルロスに生まれた。音楽教師だった父と、田舎で育った裁縫師の母のもと、九人きょうだいの一人だった。1927年にチジャンへ移り、きょうだいたちとギターを手にし、1932年に兄ニカノールの勧めでサンティアゴに出てきた。
1955年のワルシャワ青年祭典への招待をきっかけにパリに滞在してレコードを録音し、ルーヴルに自身の工芸品を掛け、1960年にはコンセプシオンに民俗芸術館を建てた。1967年2月5日に自ら生涯を終え、彼女の誕生日は後にチリの音楽家の日となった。
Q1. 1952年以前はボレロやランチェーラ、スペイン風の歌を歌っていらっしゃいました。兄ニカノールの勧めでその持ち歌をそっくり捨てられたそうですね。
捨てました。それまで私は「ビオレータ・デ・マヨ」という名前で、食堂や劇場で人の歌を売っていました。ロリータ・トーレスの曲をまねれば拍手が出ましたから。
兄が言いました。お前の国の歌はどこにあるのかと。私はその言葉に腹が立ち、腹を立てたまま荷物をまとめて田舎へ行きました。都会でヨーロッパの音楽を聴く人たちの間で暮らしている間に、肝心の私たちの土地の節は、老人たちの記憶の中から毎年何曲かずつ消えていました。
Q2. 採集はどのようなやり方でしたか。イサイアス・アングロという小作農から25弦のギタロンを習われたと聞きました。
ドン・イサイアスの家は土間で、ギタロンは胴が大きく弦が二十五本あって、最初は腕が届きませんでした。木は手垢で黒ずんでいて、低い弦をはじくと部屋の床も一緒に鳴りました。そういう音は楽譜には移せません。
ですから私は歌だけを持ち帰りはしませんでした。誰がいつどの庭で歌ったのか、クエカを踊るとき足がどちらへ回るのかまで体で覚えました。1954年にラジオで番組を担当したときも、録音はほとんどスタジオの外でやりました。歌が実際に歌われている場所、母がやっていたバランカスの食堂のようなところを訪ねました。
1958年と1959年にクエカとトナーダを別々にまとめて出したのもそのためです。形式を形式のまま残しておいてこそ、次の人がその中で新しい歌を作れます。

Q3. 採集したものをそのまま置かず、ご自身の曲として作り直されました。原型を損なうという声はありませんでしたか。
ありました。民俗は剥製にすべきだと信じる人たちがいて、私が古い形式を借りて自分の話をすることを純粋でないと言いました。1957年の最初のレコードに自作三編をそっと紛れ込ませたのも、そういう視線のためでした。
私は歌がガラスケースの中で生き延びるとは思いません。老人が歌っていた十行詩デシマを私が作り直して歌わなければ、その形式は私とともに終わります。もちろん私の手を経ることで何かは変わります。その責任まで負っていくのが採集する者の仕事です。
Q4. サンティアゴ郊外に建てた公演場は思い通りになりませんでした。1965年にお子さんたちのペーニャ・デ・ロス・パラが成功したのと対照的です。
イサベルとアンヘルのカフェは街中にあって、若い人たちが歩いて来ました。私のテントは郊外で、雨が降ると来る人がいませんでした。冬には布が濡れて重く垂れ下がり、中では息が白く見えました。
失敗したと言うほうが正確です。私は人が歌を聴きに遠い道のりを来てくれると信じていましたが、暮らしはそれほど暇ではありません。1966年にそのテントで作ったレコードが残っているので、まったく無駄ではなかったと思います。
Q5. パリの人類博物館にギタロンと採集テープを残し、ルーヴルには手作りの工芸品を掛けられました。歌う人がなぜ針を持たれたのですか。
母が裁縫師でした。父が1930年に結核で亡くなった後、私たちは手で何かを作らなければ食べていけませんでした。糸と麻布、太い針は、私にとってギターと同じくらい慣れた材料でした。
歌と刺繍は同じ仕事です。どちらも物語を入れ、どちらも作った人の手が残ります。ヨーロッパの人たちが私の刺繍を見て驚いた理由は、それが美術館の品物のように見えなかったからだと思います。田舎の女たちが台所でやっていたことを壁に掛けただけです。
テープをパリに置いてきたことは今も心に引っかかります。そこが安全だったからです。

Q6. 2026年の文化遺産の現場では、無形遺産を記録することと観光資源として使うことが同時に起きています。保存と活用の間で、どちらを選べとおっしゃいますか。
選べという言葉からして間違っていると思います。私は歌を掘り出してラジオに載せ、それで有名になり、その知名度でまた田舎に下りていきました。知られなければ守る力も生まれません。
もちろん境はあります。歌を歌った人が自分の歌がどこに使われるのか知らないまま終わるなら、それは採集にならず、ただ持っていく行為になります。私もその線をいつもよく守ったとは言えません。
記録物を積んでおくだけでは何も守られません。誰かがその節を今日歌わなければ、テープは音のない箱です。
Q7. 後に来る人たちに何を残したいとお考えですか。
残すものを決めて生きたことはありません。それでも、ある庭で老人が歌っていた節が私のノートを経てイサベルの声につながったなら、その鎖が一つ分伸びたということで十分です。
ラ・レイナに私が自分で建てた木の家がありました。釘を打ち板を張っていた音が今も耳にあります。
サンティアゴを歩く人なら、マポチョ近くの古い酒場の路地や、コンセプシオン大学が抱えている民俗芸術館を一度覗いてみてください。そこで誰かがギタロンの低い弦をはじいているなら、私の仕事は終わらないまま続いているということです。
この記事は実際の対談ではありません。ビオレータ・パラの生涯と著作、残された記録をもとにブレスジャーナルが再構成した仮想インタビューです。質問は記者が作り、答えは彼女が残した文章と足跡から引き出しました。
