
ガソリンスタンドの表示価格が1週間のうちに何度も変わる季節が戻ってきた。給油する人はその変動を指先で毎回感じる。ところが同じ家の電灯と冷蔵庫は、海の向こうの知らせとほとんど関係なく一日中ついていた。この温度差がどこから来るのかをのぞいてみると、今の論争に対する答えが半分ほど見えてくる。
価格の衝撃が来るたびに繰り返される主張がある。エネルギーが高くなった年に転換まで推し進めれば、家計と産業が持ちこたえられないというものだ。暮らしが苦しい時期に新しい設備投資の請求書を一緒に差し出すのは負担だという言葉は、それ自体としては誤っていない。だからこの主張は無視する対象というより、正面から答えるべき相手だ。
答えを探す出発点は単純な二つの事実だ。太陽光と風力は電気をつくるときに買って燃やす燃料がかからない。設備を建てて維持する費用は確かに存在するが、毎日国際市場で値がつけ直される原料を船で運んでくるわけではない。だから産油国の情勢が揺れても、この発電源の原価はその波をそのまま受けない。
電力網全体で見れば効果はいっそうはっきりする。燃料費がかからない発電が多く動く時間帯には、高い燃料を燃やす発電機をその分だけ動かさずに済む。同じ衝撃が来ても料金に転嫁される分が減るという意味だ。再生可能エネルギーは気候対策であると同時に、価格変動を吸収する緩衝材として働いてきた。

だとすれば結論は逆にひっくり返る。エネルギー安全保障の衝撃は転換を先送りする根拠にはなりにくく、むしろ急ぐべき理由を一つ加える。燃料輸入への依存が小さい電力網をつくる仕事は、環境支出であると同時に変動性に対する保険料だ。
最も強い反対の論理は間欠性だ。日差しと風は人が望む時刻に合わせて出てくるわけではなく、蓄電設備と送電網を一緒に敷かなければ増えた発電量が捨てられる。この指摘は真剣なものだ。しかし間欠性が技術と運用によって年々減らしていく課題であるのに対し、燃料輸入への依存は時間がたっても自然に薄まりはしない。
もちろん楽観を膨らませるつもりはない。再生可能エネルギーの比率を宣伝文句だけで大きくしながら、実際の電力の大半を化石燃料に頼るところは、どんな緩衝材もつくり出せない。逆に世界がまもなく終わるという口調は、人を動かす代わりに麻痺させる。必要なのは脅しよりも計算だ。
個人が国際原油価格を左右する方法はない。その代わり、日が高い真昼に洗濯機と食器洗い機を移す選択は今日すぐにできる。太陽光が最も多く降り注ぐ時間に電気を使う習慣は家庭の料金を下げ、夕方のピーク負荷を軽くして高価な発電機の稼働を減らす。春の日差しが長くなる最近、その時間帯は日ごとに少しずつ広がっている。
