
1938年、一人の人物が国境へ向かう列車に座っていた。30年以上かけて築いた研究室も、ドイツで女性として初めて得た正教授の肩書きも置いて出てきた道だった。ポケットには10マルクと、オットー・ハーンが握らせた彼の母親のダイヤモンドの指輪があった。国境で止められたら賄賂に使えということだったが、結局使うことはなかった。
リーゼ・マイトナーは1878年、ウィーンのレオポルトシュタットのユダヤ系家庭に八人きょうだいの三番目として生まれた。女性に公立の高等教育の門が閉ざされていた時代に私教育で物理学を学び、1901年にギムナジウムの卒業試験に合格し、ウィーン大学でオーストリア二人目の女性博士となった。ベルリンでマックス・プランクの助手として出発し、化学者オットー・ハーンとプロトアクチニウムの安定同位体を見つけ出し、1926年にドイツ初の女性正教授となった。アンシュルスの後にニュルンベルク人種法の対象となってスウェーデンに逃れ、そこで甥のオットー・ロベルト・フリッシュとともに核分裂とは何かを世界に説明した。
Q1. 国境を越えた日についてお尋ねします。ディルク・コスターがドイツの役人に先生の通過資格を保証したのですね。数か月前まではカイザー・ヴィルヘルム化学研究所の物理部門長でいらっしゃいました。あの一日が人生を分けたとお考えですか。
分けました。私はオーストリア国籍なのでドイツの法の適用を受けないと言って何年か持ちこたえました。レオ・シラードも、フリッツ・ハーバーも、甥のフリッシュも追われた後で、私だけが残っていました。併合で一夜にしてドイツ人になると、その例外が消えました。
列車の中の私は学者というより荷物のない女でした。地位と財産を置いて体だけ抜け出したのですから。フローニンゲン大学に採用されようとしましたが思うようにいかず、エヴァ・フォン・バールとカール・ヴィルヘルム・オセーンの取り計らいでストックホルムに着きました。
そこでも楽ではありませんでした。マンネ・シーグバーンの研究所に身を置きましたが、あの方は女が物理学をやることを快く思っていませんでした。還暦を前にした年で、他人の軒下でやり直しました。
Q2. その軒下で核分裂の解釈が生まれました。1938年12月にハーンがバリウムが出たという手紙を送ってきて、先生はフリッシュとともに準経験的質量公式で答えを出されました。その数日の間、何に取り組んでおられたのでしょうか。
ハーンの手紙は当惑でした。ウランに中性子を当てたらバリウムが出るなんて。化学者としての彼の検出は正確でしたが、彼はその結論を受け止めきれませんでした。私とフリッシュは彼が送ってきた内容に準経験的質量公式を当てはめてみました。
陽子が多くなりすぎると、互いに反発する力が核をつなぎとめる強い力を上回ります。ウランより重い元素が自然におとなしくとどまっていられない理由はここにあります。分裂した破片の質量をすべて足しても元より足りず、消えたその分がエネルギーとして出てきます。アインシュタインの式がそこにそのまま当てはまりました。
中性子を受けたウランの原子核はバリウムとクリプトンに分かれ、複数の中性子と莫大なエネルギーを出します。私たちはその解釈を1939年初めに論文として発表しました。12月にボーアが送ってきた手紙が糸口で、出てくるエネルギーが予測よりはるかに大きいという指摘でした。

私は喜ぶより背筋が冷たくなりました。中性子がまた中性子を呼ぶなら、どこで止まるのか誰も知らなかったのですから。
Q3. 核分裂は原子力発電の原理であると同時に核兵器の原理になりました。先生が明らかにした説明が兵器に使われたことについて、発見した人の責任はどこまでだとお考えですか。
自分の手がきれいだと言うつもりはありません。1935年にハーンとウランの向こう側を探り始めたとき、私たちは新しい元素を見つける競争の中にいました。ラザフォードも、イレーヌ・ジョリオ=キュリーも、フェルミも同じものを追っていました。ノーベル賞に値するとは思っても、兵器を思い浮かべた人はいませんでした。
発見は止められないが、使い道を決めるのは人間です。遺憾を表す言葉がどれほど軽いかは私も知っています。だから研究者は自分が開けておいた扉の向こうに何があるのかを最後まで見つめていなければなりません。
Q4. 1944年に核分裂の功績で授与されたノーベル化学賞は一人だけに渡りました。受賞者三人までという制限に阻まれた事情もなかったため、委員会は科学者と報道の批判を受けました。そのことをどう耐えられたのでしょうか。
ハーンが賞を受ける資格には疑いがありません。実験をやり遂げたのは彼でしたから。しかしその過程がなぜそれほど大きなエネルギーを出すのかを解き明かした仕事は、化学の領域とは隔たりがありました。
化学と物理にまたがる研究を審査する委員会は、片方の言語だけを聞き取っていたようです。1922年に私が明らかにした電子放出現象も、翌年に同じものを見つけたオージェの名で呼ばれています。二度も経験すると人は淡々とするものです。
研究は続けました。スウェーデン国籍は何年か後に得ましたが、その間に手放したものはありません。
Q5. 名前がつかなかった貢献も多くあります。カイザー・ヴィルヘルム研究所ではしばらく無給の客員でいらっしゃり、チャドウィックが中性子を証明しようとしたときにはポロニウムを送っておられました。そうしたことを続けさせた力は何だったのでしょうか。
客員だった時期は給与がなく、父が送ってくれるお金で暮らしました。それでも実験室の鍵は私の手にありました。チャドウィックにポロニウムを送ったのは、彼が中性子を証明しようと苦心していたからです。そこに他の理由は必要ありませんでした。

第一次大戦のときはエックス線装置を扱う看護員として過ごしました。1916年にベルリンに戻って研究を続けようとしましたが、その数年が残した内的葛藤は長くついて回りました。実験室の机に戻った後も、人の体を通り抜けていたあの光が思い浮かびました。
Q6. 2026年の今日、多くの国が気候対応を理由に原子力の拡大を口にしています。放射能を生涯扱ってこられた方として、この議論をどうご覧になりますか。
同じ現象から兵器も出れば発電も出ます。片方だけを話す人は、どちらの側であれ半分を隠しています。私はエネルギーを得ること自体に反対したことはありません。
肝心なのは扱う人の正直さです。私は1907年にアルファ粒子散乱の論文を書いたときから、結果が期待と食い違えば期待を捨てました。ハーンがバリウムを検出しながら自分で信じられなかったのは正直だったからで、その正直さのおかげで私に手紙が来ました。
原子力をめぐって災厄だけを語ったり安全だけを語ったりする議論には、その正直さが抜けています。廃棄物が何年もつのか、事故が起きたら誰がその土地に残るのかを一緒に置いて検討してみてください。それでも必要だという結論が出るなら、それは正当な結論です。
Q7. 今、実験室に座っている若い研究者に何を残されますか。
八歳のころ、私は枕の下にノートを置いて油膜に浮かぶ色を見つめていました。あの子は知りたくて見ていただけで、何に使われるのかは知りませんでした。その心は守りつつ、自分の結果が世に出て何になるのかは毎日問わなければなりません。
1997年に109番元素に私の名前がつきました。元素は人を記憶してくれますが、それで何をするかは毎回生きている人が決めます。今日実験室を出る前に一度だけその問いを書いてみてください。私はそれを始めるのが遅すぎました。
この記事は実際の対談ではありません。リーゼ・マイトナーの生涯と著作、残された記録をもとにブレスジャーナルが再構成した架空のインタビューです。質問は記者が作り、答えは彼女が残した文章と足跡から引き出しました。
