
カレンダーに印をつけておいた日が音もなく過ぎた経験は誰にでもある。その日付が憲法裁判所(憲裁)が国会に与えた期限であり、かかっている事案が2031年から2049年までの温室効果ガス削減経路であれば、話は変わってくる。炭素中立基本法の改正期限は過ぎ、法律には依然としてその期間を扱う条項が空いたままだ。4月に開かれる立法論議は、その空欄を埋める局面だ。
憲裁は、2050年の炭素中立を目標に掲げながらも2031年以降の削減水準をどこにも定めていない法律の状態を憲法に反すると判断した。将来世代に負担を先送りする設計だという趣旨だった。決定には改正期限が付いており、その期限は今や過去形になった。違憲判定を受けた条項を直せという期限を過ぎた状態は、どのような事情をつけても国会がすべきことをしなかったと読まれる。
だから4月の議論の核心は、何パーセント削減すると法律に書き込むかだ。2035年、2040年、2045年にそれぞれどれだけ削減するかを法律に明記しなければ、次の政権とその次の政権はまたも目標を書き直す作業から始めることになる。気候政策で最も高くつく無駄は、削減そのものよりも計画を三度四度立て直す時間だ。
もちろん反論も手強い。産業転換には設備更新の周期と雇用の問題がかかっており、法律に年度別の数値を書き込めば景気変動や技術進展に対応する余裕がなくなるという懸念がある。実際、削減負担を最も早く実感するのは鉄鋼・石油化学のように工程排出が大きい業種であり、そこで働く人々の不安は政治的なレトリックで片づけられない生計の問題だ。この懸念を軽く扱う改正案は、成立しても長続きしない。
しかし予測可能性がない方が産業にはより過酷だという点も併せて見なければならない。数十年使う設備に投資する企業が最も恐れるのは、いつどう変わるか分からない規制だ。厳しい規制そのものはその次の問題だ。
年度別の経路が法律にあれば、企業はそれに合わせて資本を配置でき、労働者は転換に必要な時間割をあらかじめ見ることができる。削減率を定める作業と転換を支援する作業は互いに引き換えにできず、一つの法律に共に盛り込まれなければならない。
気候の議論では二つの語り口が同じように有害だ。一つは何をしても手遅れだという諦めであり、もう一つは目標だけ立派に掲げて実行条項は空けておくやり方だ。前の語り口は人々を座り込ませ、後の語り口は誰も責任を負わないようにする。法律に年度と数値を書き込む作業は、その二つの間を抜け出す最も無味乾燥で確実な方法だ。
期限を過ぎた責任を誰か一人に負わせるのは簡単だが、あまり役に立たない。憲裁の決定以降、改正案がいくつもの筋道で議論されてきたのも事実であり、合意が難しかった点も確かにあった。重要なのは4月にどの案が実際の条文として上がってくるのか、その案に2031年以降の年度別数値が入っているのかだ。
見守るべき点は単純だ。発議される改正案ごとに2035年と2040年の削減率がパーセントで書かれているのか、それとも「努力する」で終わるのか。国会の議案情報は誰でも閲覧でき、選挙区の議員事務所にどの案を支持するのか尋ねることも誰にでもできる。期限を過ぎた法律を生き返らせる力は、結局その条文を読んでみた人の数から生まれる。
