
昼の二時、カーテンを半分下ろした部屋がある。ドアの前には冷めた出前の袋がそのまま置かれ、中にいる人は三日間玄関の外に出ていない。この人は失業者として数えられない。求職活動をしていないので働く意思がない側に分類され、そうして行政の視野から静かに抜け落ちる。
政府が複数の省庁に散らばった若者向け事業を一か所に集めて見る関係閣僚会議を初めて開いた。会議体ができたという事実そのものより重要なのは、何を初の議題とするかだ。折しも同じ時期に、部屋から出られない若者たちが社会に残す費用を計算したものが示された。
計算の骨組みは複雑ではない。働けなかった期間の分だけ所得と税収が生まれず、その空白を家族の扶養と医療費、時期を逃した相談と治療が代わりに埋める。とどまる時間が長くなるほど、元に戻すのにかかる時間と金も一緒に膨らむ。
だからこの問題は温情の領域だけで扱う事柄ではない。ひきこもり若者への支援は、気の毒な事情を助ける仕事である前に、今この瞬間にも漏れ出している損失を減らす支出だ。会議体が自らの有用性を証明しなければならないとすれば、その試験台はまさにここにある。
反論ははっきりしている。部屋にとどまるのは結局本人の選択なのに、なぜ公的財源を使うのかという問いだ。しかし選択のように見える状態の手前には、たいてい繰り返された失敗と切れた関係が置かれており、その地点で手を離したとき、費用は消えずに形を変えるだけだ。家族が背負うか、はるかに高価な医療と介護に移っていくだけだ。
より現実的な反論は順序の問題だ。住まい、負債、雇用まで、若者政策の待機リストは長い。それでもこの事柄を前に繰り上げる理由がある。
ひきこもりは他のすべての支援の入り口をふさぐからだ。ドアの外に出られない人には、よく設計された就職プログラムも届かない。
ここで省庁連携という言葉が実質を持つ。心の問題は保健の側に、仕事の問題は雇用の側に、生活費は福祉の側に散らばっている間、当事者は同じ話を窓口ごとに最初から話し直さなければならない。説明を繰り返すこと自体が敷居になる。
次の会議の議題にひきこもり若者が独立した項目として上がるのか、一人が経なければならない窓口の数が減るのかを見守る必要がある。ドアの前まで行く人の名前と所属を決めることは、会議体が今すぐできる決定だ。
